「普通の家庭」が分からない。
友達の家に行ったとき、
「こんな家族って本当にあるんだ」と驚いたことはありませんか。
私は高校生になるまで、自分の家庭が普通ではなかったことに気づいていませんでした。
もしかすると、それは機能不全家族で育った影響かもしれません。
この記事では、
・機能不全家族に気づいたきっかけ
・その後に起きた変化
・回復の初期にやったこと
を実体験としてまとめます。
「機能不全家族」とは子育てや生活などの家庭の機能がうまくいっていない状態を言います。
詳しい解説はこちらの記事が参考になります。
👉【専門家監修】機能不全家族、アダルト・チルドレンにとは?原因、特徴、相談先や家族の立て直し方をご紹介
今回書くことは、すべて私の記憶の中にある出来事です。
「どうしてもそう考えざるを得なかった」
子どもの頃の私の視点で書いています。
読み進める中でつらくなったときは、
無理をせず手を止めてください。休みながらで大丈夫です。
この記事が、同じような悩みを抱える人の
小さなヒントになれば嬉しいです。
「機能不全家族かもしれない」と気づいたきっかけ

本と自助グループとの出会い
機能不全家族という言葉を知ったのは、本や自助グループでの対話の中でした。
今回のパニックが初めてではなかったこともあり、これまでもその自助グループの中で何度も自分の家庭の話はしてきました。
アダルト・チルドレンという言葉も知っていました。
昔母から本を渡されたこともあり、父の話題になると「機能不全」という言葉は以前から出ていたものの、どこか他人事のように受け取っていたのだと思います。
ある夜、その本を読み返していました。
その時「機能不全家族」という言葉を見て、ふと手が止まりました。
その言葉が急に自分の中で一致しました。
「ああ、これだ」
そう思いました。
ぴったりだ、その通りだと、説明がついた感覚でした。
ずっと感じていた違和感に、やっと名前がついたような感覚でした。
私にとって“サザエさんのような家庭”は現実ではなく、フィクションでした。
そのとき初めて、「普通の家庭が分からない理由」が一本の線でつながった感覚がありました。
それまでも違和感というレベルではなく、家庭はすでに破綻していました。
虐待や面前DVがあり、山に置いていかれそうになった記憶もあります。
ただ外からは「いい家族」に見えるように整えられていたため、自分の感じていることの方がおかしいのだと思っていました。
今振り返ると、「おかしい」と感じていた自分の感覚の方が正しかったのだと分かります。
「家族として成り立っていない」と気づいた瞬間
それは、高校生の頃だったと思います。
「家族として成り立っていない」
その一文を、確かめるように何度も読み返しました。
ずっと胸の奥にあった違和感が、
その言葉で説明できた気がしました。
そうだよな、やっぱりそうだったんだ。
そんな感覚でした。
自分の感覚は間違っていなかった。
そう思えたことで、ほっとしました。
けれど同時に、現実は何も変わらないことにも気づきました。
状況はそのままで、どうすればいいのか分からない。
軽い絶望のような感覚がありました。

不安になると、音楽に逃げ込んでいました。
父の怒鳴り声を聞きたくなくて、爆音で音楽を流していたことを覚えています。
高校時代は、アルバイトや外出を増やし、なるべく家にいないようにしていました。
家にいない時間だけが、安全に感じられたからです。
今振り返ると、その頃が一番「自由」に近かったのかもしれません。
「普通の家庭」が分からないと感じた瞬間
「普通の家庭」が分からないと強く感じたのは、
付き合っていた人の家に行ったときでした。
そこには、私の中ではフィクションだった“サザエさんの世界”がありました。
家族が同じ空間にいて、会話があって、空気が穏やかでした。
それだけでも驚いていたのですが、さらに衝撃だった出来事があります。
彼が母親に向かって、かなり乱暴な言葉を使ったのです。
その瞬間、私は恐怖で固まりました。
私の家で同じことを言えば、激しく怒鳴られ、
何が起きるか分からないと思ったからです。
言葉の良し悪しではなく、
「そんな言葉を言っても関係が壊れない」
という事実が信じられませんでした。
友人が飲み会の帰りに親を呼び、
タクシー代わりにしていたことも同じくらいの衝撃でした。
気軽に頼む、気安く話す。
そういう関係が存在すること自体が、私には現実味のないものでした。
私は父の話を一方的に聞くだけで、
自分の意見や感想を伝えた記憶がほとんどありません。
話を聞いてもらったという感覚もありませんでした。
だからこそ後から気づいたのは、
「普通が分からない」のではなく、
私が育った環境が“普通とは違っていた”
ということでした。
気づいた後に起きた体の反応

納得と安心、そして混乱
気づいたあと、最初にできた行動は「書くこと」でした。
高校時代、友人との交換日記に自分の家庭のことを書いたことがあります。
その友人も大変な環境で育っていたため、特別なアドバイスをされるわけではなく、
「そんなこともあるよね」と受け止めてくれました。
否定されない。
それだけで安心できました。
何でも書ける日記は、当時の私にとって心の支えでした。
当時は交換日記でしたが、今はジャーナリングという形で感情を書き出すことを続けています。
書くことで気持ちが整理される感覚については、こちらの記事でもまとめています。
→【ジャーナリング記事リンク】
書くことで気持ちが落ち着き、頭の中が少し整理されました。
今振り返ると、「安全に感情を出せる場所」を無意識に作っていたのだと思います。
一方で、ニュースの中の虐待や戦争、飢餓の話を追いかけていた時期もありました。
自分よりも過酷な状況にいる人を見て、「まだ大丈夫」と安心していたのです。
当時は気づきませんでしたが、これも自分を守るための防衛反応だったのだと思います。
距離を取る
高校生の頃に気づいてはいたものの、
すぐに家族と距離を取れたわけではありませんでした。
キャンプにも一緒に行っていましたし、
中学生の頃から「やりなさい」と言われて続けていたボランティアも、
高校になってもそのまま継続していました。
ただ、高校一年生で交際が始まってから、
家の外にいる時間が明らかに増えました。
楽しい場所ができたことで、自然と物理的な距離が生まれたのだと思います。
もう叩かれることはありませんでしたが、
家の中での衝突や緊張した空気を見るのがつらく、
朝帰りをしたり、すぐにアルバイトに行ったりして、
できるだけ家にいないようにしていました。
結果的に、それが当時の私にとっての「距離の取り方」でした。
一方で、子どものボランティア活動は父が始めたもので、
その流れで私も続けていました。
そこで出会いもあり、すべてが嫌な記憶というわけではありません。
「離れたい気持ち」と
「そこにしか居場所がない現実」が
同時に存在していた時期だったのだと思います。

安全な人を作る
当時、安全だと感じられたのは交換日記をしていた友人でした。
とても包容力があり、社会への不満も素直に言葉にできる人で、
話を聞いているだけで気持ちが楽になりました。
私は「いい子」でいる癖が強く、本音をそのまま話すことは難しかったのですが、
否定されない場所があるというだけで支えになっていました。
もう一人は、高校一年生のときに付き合った彼です。
今の夫になります。
危ないことや間違っていることはきちんと伝えてくれる一方で、
私自身を否定することはありませんでした。
初めて会ったときに強い安心感があり、
自分から連絡を取って交際を申し込んだことを覚えています。
「何があっても好きだ」と言われる経験は初めてで、
こんな人が本当にいるのだろうかと戸惑うほどでした。
その安心感を信じきれず、距離を測るような行動をしてしまうこともありましたが、
それでも関係が続いたことが、
後から振り返ると大きな支えになっていたのだと思います。
機能不全家族に気づいたあと、
本当の回復はここから始まりました。
このあと、
・回復の途中でしんどかったこと
・転機になった出来事
についても書く予定です。

