「普通の家庭が分からない。」
そう思ったことはありませんか?
友達の家に遊びに行って、
- 子どもが親に口答えをする
- 怒られているのに、どこか安心している
- 欲しいものを親に素直にお願いする
- 友達のように親と話している
そんな光景を見て、
「本当にこんな家族があるんだ」
と驚いたことがあるなら──。
私にとって”サザエさん”のような家庭は、現実ではなくフィクションでした。
「機能不全家族」とは、子育てや生活など、本来家庭が持つ機能がうまく果たせていない状態をいいます。
家庭は、本来なら安心できる土台になる場所です。
でも、その場所が安心できず、頼ることもできなかったら──。
子どもは生き抜くために、自分を変えていきます。
- 家庭のケンカを取り持とうとする
- 自分の気持ちを押し殺し、感じないようになる
- 「悪いのは自分だ」と思い込む
- 『いい子』を演じ続ける
その結果、子どもらしい子ども時代を過ごせなくなります。
そして大人になってからも、その影響が残ることがあります。
例えば、
- 白黒思考(0か100か)で考えてしまう
- 自分の意見を言えない
- 人の頼みを断れない
- いつも作り笑顔をしてしまう
- 他人からの承認を求めてしまう
親の言葉が頭から離れず、本当の気持ちとは違う行動を選んでしまうこともあります。
私自身も、ずっとどこか生きづらさを感じながら生きてきました。
もし当てはまっても、それは性格の欠点ではありません。
子どものあなたが生き抜くために身につけた工夫です。
この記事では、
- 私が機能不全家族に気づいたきっかけ
- その後に起きた変化
- 回復の初期に取り組んだこと
を実体験をもとにお伝えします。
今回書くことは、すべて私の記憶の中にある出来事です。
「どうしてもそう考えざるを得なかった」
子どもの頃の私の視点で書いています。
この記事が、同じような悩みを抱える人の 小さなヒントになれば嬉しいです。
読み進める中でつらくなったときは、
無理をせず手を止めてください。休みながらで大丈夫です。
「機能不全家族かもしれない」と気づいたきっかけ
普通とは違っていた私の家庭
「普通の家庭」が分からないと強く感じたのは、
付き合っていた彼の家に行ったときでした。
そこには、私の中ではフィクションだった“サザエさんの世界”がありました。
家族が同じ空間にいて、会話があって、空気が穏やかでした。
それだけでも驚いていたのですが、さらに衝撃だった出来事があります。
彼が母親に向かって、かなり乱暴な言葉を使ったのです。
その瞬間、私は恐怖で固まりました。
私の家で同じことを言えば、激しく怒鳴られ、
何が起きるか分からないと思ったからです。

言葉の良し悪しではなく、
「そんな言葉を言っても関係が壊れない」
という事実が信じられませんでした。
友人が飲み会の帰りに親を呼び、
タクシー代わりにしていたことも同じくらいの衝撃でした。
気軽に頼む、気安く話す。
そういう関係が存在すること自体が、私には現実味のないものでした。
私は父の話を一方的に聞くだけで、
自分の意見や感想を伝えた記憶がほとんどありません。
話を聞いてもらったという感覚もありませんでした。
だからこそ後から気づいたのは、
「普通が分からない」のではなく、
私が育った環境が“普通とは違っていた”
ということでした。
「家族として成り立っていない」と腑に落ちた時
高校生の頃、ある本を読んでいて手が止まりました。
「家族として成り立っていない」=「機能不全家族」
その一文を、確かめるように何度も読み返しました。
私はアダルト・チルドレンという言葉をすでに知っていました。
そしてすでに体の反応も、十分に影響が出ている状態でした。
どうしても、本音で話そうとすると涙が出る。
親が怒るかもしれないと思うと過呼吸になる。
私には体が恐怖で強張ることが日常的に多くありました。
それまでも違和感というレベルではなく、家庭はすでに破綻していました。
虐待や面前DVがあり、小さな頃に山に置いていかれそうになった記憶もあります。
ただ外からは「いい家族」に見えるように整えられていたため、自分の感じていることの方がおかしいのだと思っていました。
今振り返ると、「おかしい」と感じていた自分の感覚の方が正しかったのだと分かります。
そうだよな、やっぱりそうだったんだ。
そんな感覚でした。
自分の感覚は間違っていなかった。
そう思えたことで、ほっとしました。
けれど同時に、現実は何も変わらないことにも気づきました。
状況はそのままで、どうすればいいのか分からない。
軽い絶望のような感覚がありました。

気づいた後の私の行動
気づいた後できたこと
気づいたあと、最初にできた行動は「書くこと」でした。
高校時代、友人との交換日記に自分の家庭のことを書いたことがあります。
その友人も大変な環境で育っていたため、特別なアドバイスをされるわけではなく、
「そんなこともあるよね」と受け止めてくれました。

否定されない。
それだけで安心できました。
何でも書ける日記は、当時の私にとって心の支えでした。
当時は交換日記でしたが、今はジャーナリングという形で感情を書き出すことを続けています。
書くことで気持ちが整理される感覚については、以下の記事でもまとめています。
→【“なんで私ばっかり…”が減った|自己肯定感が上がるやさしい習慣】はこちら
書くことで気持ちが落ち着き、頭の中が少し整理されました。
今振り返ると、「安全に感情を出せる場所」を無意識に作っていたのだと思います。
一方で、ニュースの中の虐待や戦争、飢餓の話を追いかけていた時期もありました。
自分よりも過酷な状況にいる人を見て、「まだ大丈夫」と安心していたのです。
当時は気づきませんでしたが、これも自分を守るための防衛反応だったのだと思います。

距離を取る
高校生の頃に気づいてはいたものの、
すぐに家族と距離を取れたわけではありませんでした。
キャンプにも一緒に行っていましたし、
中学生の頃から「やりなさい」と言われて続けていたボランティアも、
高校になってもそのまま継続していました。
ただ、高校一年生で交際が始まってから、
家の外にいる時間が明らかに増えました。
楽しい場所ができたことで、自然と物理的な距離が生まれたのだと思います。

もう叩かれることはありませんでしたが、
家の中での衝突や緊張した空気を見るのがつらく、
朝帰りをしたり、すぐにアルバイトに行ったりして、
できるだけ家にいないようにしていました。
結果的に、それが当時の私にとっての「距離の取り方」でした。
一方で、子どものボランティア活動は父が始めたもので、
その流れで私も続けていました。
そこで出会いもあり、すべてが嫌な記憶というわけではありません。
「離れたい気持ち」と
「そこにしか居場所がない現実」が
同時に存在していた時期だったのだと思います。
安全な人を作る
当時、安全だと感じられたのは交換日記をしていた友人でした。
とても包容力があり、社会への不満も素直に言葉にできる人で、
話を聞いているだけで気持ちが楽になりました。
私は「いい子」でいる癖が強く、本音をそのまま話すことは難しかったのですが、
否定されない場所があるというだけで支えになっていました。

もう一人は、高校一年生のときに付き合った彼です。
今の夫になります。
危ないことや間違っていることはきちんと伝えてくれる一方で、
私自身を否定することはありませんでした。
初めて会ったときに強い安心感があり、
自分から連絡を取って交際を申し込んだことを覚えています。
「何があっても好きだ」と言われる経験は初めてで、
こんな人が本当にいるのだろうかと戸惑うほどでした。
その安心感を信じきれず、距離を測るような行動をしてしまうこともありましたが、
それでも関係が続いたことが、
後から振り返ると大きな支えになっていたのだと思います。
機能不全家族に気づいたあと、
本当の回復はここから始まりました。
このあと、
機能不全家族②|回復の途中でしんどかったことと転機
機能不全家族③自分の味方になるためにやったこと
についても書いています。
よろしければご覧ください。


